[くまをとる]

機械化帝国

この前久しぶりに「銀河鉄道999」を読んだ。
著作権の保護を追求する松本零士と機械化人が重なって見えたよ。

鉄郎には命は限られてるから精一杯生きるとか言わせておきながら
あんたが人の生命力をすすって永遠に生きようとしてどうする。。。

コメント(0)| Track back(0) | 2007-12-27 13:19:44

気の長い話:Winnyが作る歴史

Winnyの判決が持つ意味を、少し大きな枠から考えてみたいと思う。しばらく更新をさぼっていたが、Winny開発者である金子氏が逮捕された前後に多くのエントリを書いてきたことを考えると、この機会に一言、思ったことを書いておかざるを得まい。

★有罪か。

個人的には、そうかあ。という気分だ。Winnyに関する議論は一通り出尽くした感があるので、この有罪という結果は「途中経過」として受け取るばかりだ。もちろん弁護団は控訴するわけだから、一つのマイルストーンに到達したな、というような感想を持つ程度だ。

この判決が「ソフトウェア開発者」にとって実際にどのくらいの危機を及ぼすかというと、その点は疑問だ。(これはもちろん後知恵だが)金子氏は脇が甘すぎた。今回の有罪判決が導かれた大きな理由は、金子氏のこれまでの発言が一貫して「反現行著作権的」だったということにあるのではないか。その発言と、Winnyのようなソフトウェアの開発をセットで見ると、確かに怪しさは高まる。例えば、金子氏が開発の経緯でずっと著作権の遵守をユーザーに強く求める発言をしていたら、今回のような判決はあったか。あるいは、金子氏が一度でもWinnyを題材に学会発表をしていたら、こんな結果にはならなかったのではないか、そんな気にさせられる。逆に言えば、今回の裁判の経緯と判決を見ると、ソフトウェア開発者は、表向きマジメな態度を保っていれば危険は避けられるのではないか、と思わないでもない。もちろん、今回の裁判の経緯は別にして「今度は他にどこでいちゃもんをつけられるかわからない」のは確かで、実際のところはわからないわけだが。

とにかく、この裁判が起こってしまった時点で、すでにソフトウェア開発者は、違法な利用が想定されるソフトウェアの開発にリスクがあることを意識せざるをえなくなっているのは確かだ。今回の判決以降の動きは、そのリスクの程度を量的に測る指針になる。リスクがあることは明らかで、「どこまでいけばどの程度危険か」という話になるわけだ。

★金子氏はダメージを受けたか

社会的な影響もさることながら、金子氏自身はこの判決でどうなるのか。まあ、大局的に見れば別に変化はないだろう。金子氏自身も、一審でこの判決が出るのはある程度覚悟していたのではないか。今、金子氏を評価している人が、この判決を受けて、その評価を下げるとも思えない。金子氏を批判していた人たちも。。。もし無罪だったら驚いただろうが、有罪だったのだから、別に評価は変わるまい。

そういう意味で、今回の判決は金子氏には大きな影響は与えなかったと言えるのではないか。そして、実は結果が無罪だったとしても、実は結果はそんなに変わらなかったろう。検察側は控訴しただろうからだ。どのみち、最終結論は見えない、最初の一歩に過ぎなかったわけだ。

★ひろゆき氏の偉大さとWinnyの役割

実は今日、日本版Wikipediaの中の人と話す機会があった。いろいろとお話を聞いたのだが、Wikipediaが直面するさまざまな問題について話を聞くうちに、「ひろゆき氏の偉大さ」という話が出てきた。

Wikipediaというのは、実はいわゆる「Web 2.0的」と言われるサービスの中でも、かなり特殊な存在だ。Web 2.0的なサービスをいくつか挙げてみよう。Google、Flickr、Wikipedia、YouTube……、日本で有名どころと言えばはてな、mixi、gree。Web 2.0的と言わずに、プラットフォームサービスと言えば、Yahoo、楽天、2ちゃんねるなどか。マイクロソフトを加えるべきかも知れない。どこが境界線なのかは、もちろんいろいろな意見があるにしても。こうして簡単にリストを想像してから振り返ってみると、実はほとんどのサービスは営利企業が提供している。つまり、そのサービスに最終的な責任を負う法人がいるわけだ。

責任を負う法人がいるということは、訴訟リスクを意識せざるを得ないということに他ならない。法人が運営しているプラットフォームビジネスは、訴訟を意識していろんな手を打っているし、組織としての判断をしている。例えば、mixiがある日記を削ったり、あるユーザーを退会させたりするとき、「私たちは、規約に乗っ取り組織の判断としてそういう決断をしました」と言うわけだ。そこには主体がある。

ところが、wikipediaの運営組織には、そういう主体性は薄い。日本のwikipediaにはローカルルールがあるが、wikipediaの運営組織には法人格はない。mixiには代表権のある社長がいて「私がmixiです」と言って話ができるが、wikipediaにはそういう人はいない。ただ、ユーザー間で話し合ってルールを作り、ボランティアである運営者はそのルールに従って運用をしているだけだ。そういう特殊な「場」で、みんなで運営ルールを作り出すのが難しいことは、想像に難くない。

そのルールを考える上では、もちろん法的リスクなどもいろいろと問題になる。ルールは法的な問題をできるだけ避けられるようになっていなければならない。それを検討する上で、いろいろな判例を調べたりする必要があるわけだが、そこで2ちゃんねるのひろゆき氏が登場してくるというのだ。ウェブサイト上でのトラブルで訴訟になるケースを追っていくと、ひろゆき氏の事例が多く出てくる。彼がいろいろな問題を引き受け、いろいろな判例を作ってくれているのだ。

ウェブ上でサービスを提供している企業は、訴訟を避けるように振る舞う。法的な問題が予想されれば、あらかじめ安全側に倒して行動する。従って、普通の企業が提供しているサービスではあまり訴訟は起きない。特に、裁判コストが高い日本ではその傾向が強い。しかし、判例が出なければ、世の中はグレーゾーンばかりで、どこまで行けば黒くなるのかはわからない。。。そこに豊富に判例を提供してくれているのがひろゆき氏なわけだ。ひろゆき氏のおかげで、後進が道を見極めることができているという側面がある。

この話が、僕の中ではwinnyの話とどこか繋がって見える。金子氏がwinnyで世の中に見せたいくつかの問題点は、いつかは我々の社会が考えなければいけない論点だった。その結論が判例という形で示されるのは、都合がよい側面も確かにある。そう考えると、winnyの問題が裁判沙汰になったということには、良かった面もあるのかもしれない。

ただ、最終的な結論は、最高裁で決着がつくまでは得られないだろう。気の長い話になりそうだ。

コメント(2)| Track back(0) | 2006-12-13 21:21:51

クリップ:砂

すごい!

コメント(0)| Track back(0) | 2006-11-13 00:45:13

久々更新

実はこっそり9月1日よりフリーの生活になりました。もっとも、なって早々大風邪にかかり、今日もまだぐずぐずしていて、ちっともフリーな気分にはなってないんですが。

近々新しいドメインのメールアドレスなどできる予定なので、その際には報告します。

最近「くまとり 今日の話」なんて別ブログもやってるんですが、そっちも久々に更新してみました。今日の話はNYTimesの9.11関係の記事を選んで書いてみました。アメリカの住人の意識調査の結果が載っていたので、ちょっと読んでみた、というものです。結論: 人間、やっぱり人のことはよくわかっていない。。。

コメント(0)| Track back(0) | 2006-09-07 18:43:28

仮説: 情報ツールの普及は国語力を向上させる

かねがね、携帯電話(携帯メール)や電子メール、IMなど、各種の情報ツールが普及することで、国語力は高まりそうだと考えてきた。今日、「IM表現は「優れた言語能力を示す」――カナダの大学が調査」(ITmedia)なんて記事が出ていて、さもありなんと改めて思った。この機会に、これまで考えていたことを簡単にまとめておこうと思う。

★日本の国語教育は国語力を高めるか

大昔から、日本の国語教育には疑問を持っていた。というのはまあ大げさだとしても、自分が小学生から高校生までの12年間、国語の授業を受けてきた経験から言って、国語の授業が自分の「国語力」を高めたとは思えない。もちろん全部が無駄だったとも思えないけれど、はっきり役に立ったのは漢字の書き取りとローマ字、あとはことわざや敬語・丁寧語の教育くらいか。どれも暗記の範疇のものばかりだ。古文と漢文のについては、外国語の授業に近いと思うので、まあ今回は考えないことにしよう。正直、国語(高校で言えば現文)の授業で読解能力がついたとも思えないし、しゃべり方がうまくなったとも思えない。まして、文章を書くことについては、国語の時間に教えてもらったことが役に立ったことはほとんどなかったと思う。(日本人の教養を身に付けるという意味では、確かに国語の授業が役に立ったことも多い。むしろ、「教養」という授業にしてもいいくらいだと思う)

実は学生として大学にいたころ、僕は7年ほど学習塾で塾講師をしていた。主要な教科は中学校英語だったが、数学もやったし、理科もやった。そして、小学校の算数と国語もしばらく教えていたことがある。自分が生徒だった頃も薄々感じてはいたことだったが、教壇に立ってみて改めて小学生の国語の教材を見て、「こりゃいかん」と思った。こんな問題集やらを解かせながら時間を過ごしてみても、こいつら(生徒たち)の国語力が上がるわけがない、というのが正直な感想だった。

典型的な国語の長文問題を思い浮かべてほしい。小説やら説明文から、何百字かの文章が、きりのいい長さで抜き出されている。そこここに傍線が引いてあったり、(ア)だの(イ)だの抜けているところがある。問題では、文章のある部分を取り出して、その意味を4つの選択肢から選ばせたり、漢字の読みを書かせたり、主人公の気持ちを書かせたりする。授業で先生が言っていたことを聞いていれば、このクイズに答えられる仕組みだ。

確かに、国語力が高い生徒は、文章を読んでその意味するところを理解できる。従って、国語力が高い生徒はこのクイズに答えられる。だから、生徒の国語力を測る仕組みとしては、こんなクイズも役に立つだろう。しかし、国語力が低い生徒に対する教育効果はどうだろう。こんな問題を繰り返しやることで、国語力が高まるだろうか。漢字の書き取りくらいは出来るようになるかもしれない。クイズに答えるテクニックも多少身に付けられるかもしれない。しかし、文章の読解力が高まるとは思えない。

ところが、受験もあれば学校の定期試験もあるというわけで、生徒はこういうクイズに答えられることが国語力だと思う。先生も、ともすれば最後にクイズを出すことを前提に授業をする場合も多い。

多くの人が賛成してくれるのではないかと思うのだが、読解力は好きな文章をたくさん読むことで身につく。コミュニケーション能力は、人とたくさんコミュニケーションを取ることで身につく。文章力は、人に伝えるための文章をたくさん書き、間違いや分かりにくいところを他人に指摘されることで身につく。クイズをいくらやっても、こういう力は大して身につかないだろうと思う。

僕が塾で小学生に国語を教えた時は、問題集の長文問題を使って、生徒たちに音読をしてもらい、感想を聞き、その文章の要約文を原稿用紙に書かせる、ということをひたすらやった。そのクラスは1年間しか見ていなかったので、そのやり方が正しかったのかどうか、今でもよくわからない。でも、ひたすらクイズを解き続けるよりは、何がしかの役に立ったのではないかと思う。

★現代・情報社会の日本人は文章を書いている

そもそも、日本人のほとんどは、まともな日本語の文章を書けない。わが身を振り返ってもそう思うし、回りの人たちを見ていてもそうだ。僕は研究者という職業柄、文章を書くことは仕事の一部なので、他の職業の人たちと比べ、はるかに文章を書く機会が多い。言わばプロだ。それでも、時々自分が書いた文章を読み返して呆れることがある。そのくらい、文章を書くことは難しい。そして、文章を書くのがうまくなるためには、たくさん書くしかない。

しかし、学校教育の中で文章を書く機会は極端に少ない。長文問題の最後にある「この時の主人公の気持ちを40字以内で書きなさい」なんて問題の答えを書くときや、夏休みの読書感想文の宿題をやる時くらいではないか。だが、「伝えたいこと」を書かずに、文章力がつくだろうか。つくとは思えない、というのが個人的な思いだ。人に伝えたいことを書こうとするとき、初めて人は自分の文章について「こう書くのがいいか、それともああ書くのがいいか」と考える。そういう経験を経て、文章力や国語力が身につく。

特殊な職業を除けば、多くの人は就職後も文章を書く機会はない。これで、文章力をつけろという方が無理だ。

ところが、今の日本はちょっと事情が変わってきた。文字によるコミュニケーションの機会が、極端に増えているのだ。たとえば携帯メール。たとえばブログ。たとえばIM(メッセンジャーなど)。情報化によってコミュニケーションツールが急速に発達しており、その中心は文字によるコミュニケーションだ。その結果、現代人は誰かに何かを伝えるために文章を書く機会が著しく増えている。

まず確実に、今は有史以来日本人がもっともよく文章を書いている時代だと言っていいのではないか。このことで、日本人のコミュニケーション能力や文章力は、全体的に向上するのではないか。これが、以前から僕が考えていたことだ。

★カナダの研究が伝えること・「言葉を操る優れた能力」はどう養われるか

実は、この記事を書くにあたり、とりあえず「携帯 国語力」というキーワードで検索をかけて、いろいろなページを眺めてみた。携帯メールの普及によって、最低限の短い文章によるコミュニケーション文化が作られ日本語を歪めている、というような主張をしているページもあれば、国語審議会の文字セットの議論の中で「携帯の普及についても織り込んで考えていかなければならない」という意見が表明されているページもあった。全体的に見ると、あまりこの問題に深入りしているページはないようで、肯定的な捕らえ方をしているページは少ないように思える。僕にとっては少し意外な結果だった。

冒頭に挙げた記事は、海外のことながら、僕がこれまで思っていたことを裏付けるものだ。しかも、この記事はもう一歩踏み込んでいる。IMの中で使われる表現では、砕けた言葉遣いだけではなく、話し言葉では使わないような文語的表現も使われていることを指摘し、これを「言葉を操る優れた能力」と呼んでいる。

確かに、われわれは場面によって言葉を使い分けている。話し言葉もそうだし、書き言葉もそうだ。携帯メールとブログとIMでも、まったく違う。2chの書き込みを想像してもそうだ。僕自身は2chは読む一方で書き込んだことはないのだが、周囲の人のケースを見ると、普段は理知的な話し方や書き方をする人も、2chでは2ch語になる(いわゆる「空気嫁」というやつか)。そういったコミュニケーションの場に文字を使って参加するためには、必然的に文脈や場面の雰囲気を読んで、最適な言葉遣いはなにかを考えて文章を構成する必要が出てくる。

こういったことの繰り返しは、言葉に対する感性を養うに違いない、と僕は個人的に思う。(日本の話でこれを裏付ける実証研究を僕は知らないが、もしすでにあれば、ぜひ教えてください) これを我々は肯定的に捉えるべきだというのが、僕の意見だ。

日本の国語の時間の1/3くらいは、ブログを書かせたり、2chに書き込ませたり、掲示板で議論をさせることに使ったほうがいいのではなかろうか。(蛇足)

コメント(0)| Track back(0) | 2006-08-04 21:16:42

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